
第1回「ペットロス」エッセイコンテスト
審査員推奨作品
「本になったマル」
「マルが死んだぞ」
夫の声に飛んで行くと、寝床から半身を乗り出すようにしてマルが横たわっていました。慌てて頭に手をやると冷たくて硬く、昨日まで苦しそうに上下していたお腹も静まりかえっています。涙が堰を切ったように溢れ、悲しみと後悔と自責の念が一気に押し寄せました。
昨夜一晩中ついていてやればよかった。最後は、この腕の中で逝かせてやりたいと思っていたのに……。
十日ほど前から寝たきりになり、何も受け付けなくなりました。それでも時々「ワンワン」と吠えるのです。慌てて傍に行くとスースー寝ています。マルは眠りながら吠えているのでした。その吠え声が、元気な時の声に似ていて不思議でした。

「夢でも見ているのかしら」
「そうかも知れんな」
「きっと夢の中で、元気に庭を駆け回っているんだわ」
咲いたばかりのチューリップを、かたっぱしからへし折って叱られたマル。
飛んで来るチョウやハチを追いかけ回していたマル。
忙しく冬囲いしている夫の後を、嬉しそうについて回っていたマル。
落ちてくる雪を、空に顔を向けてパクパク食べていたマル。
散歩に行く時は、嬉しさを隠しきれず小躍りしていたっけ。
無知な私は漠然と、マルはこのまま穏やかに眠るように死んでゆくのだと思っていました。が、現実は違いました。目の前のマルの亡骸には苦悶の跡が残されていました。よほどもがいたのか、前足の爪の間には血が滲み、床にも血痕がありました。
「マル、ごめんね」
十五歳。老衰による多臓器不全でした。
平成三年の春、下の子が大学進学のために家を離れて間もなく、夫が知人宅で生まれた生後二ヶ月の子犬を貰ってきたのです。雑種ということでしたが、成長するにつれ北海道犬そっくりになりました。立ち耳に巻尾、薄茶色の体に黒いつぶらな目をした凛々しい男の子でした。たまたまカルチャースクールの文章教室に通っていた私は、よくマルのことを書いたものです。マルは言葉こそ話せませんが、感情が豊かで人の気持ちを解ってくれるし、言葉もかなり理解します。夫婦二人暮らしの私たちにとって、マルはかけがえのない存在でした。しかし十歳を過ぎる頃から、マルは老いの兆しを見せ始めました。犬の一年は人間の約六年に相当するといいます。あっという間に私たちを追い越し日に日に老いてゆくマルは、還暦をとうに過ぎた自分と重なり、切ないものでした。マルはもしかしたら、この私だったのかも知れません。
平成十八年七月九日、マルは永眠しました。夏空の眩しく広がる朝でした。
それからというもの私は泣いてばかりいました。日常のさりげないこと全てがマルの思い出に繋がるのです。夕餉の支度をしながら「ああ、もうマルの分は作らなくていいんだ」と思い、外出から帰ると「ワン」と嬉しそうに迎えてくれる声がないのを淋しく思う。
マルのいない、けれども夏の花々が咲き乱れる庭を眺めている時、ふいに「マルの庭」というフレーズが浮かびました。ずっと庭で飼われていたマルにとっての世界は、この庭だったのかも知れません。

十五年の間に、マルのことを書いた随筆が三十編ほどたまっていました。そうだ、今こそ本を作ろうと思いました。夫に相談すると「マルへの鎮魂歌だね」と賛成してくれました。もう泣いている場合ではありません。昔書いた作品を整理し、推敲しながら気付きました。これはマルのためというより、私のためなのではないかと。古い作品を読み返していると、マルとの楽しかった日々が、まるで昨日のことのように蘇ってくるのです。声を立てて笑っている私を見て、夫は気でもふれたかと思ったかも知れませんが、私はペットロスから立ち直りかけていました。こうして半年後、「マルの庭」が完成しました。
可愛がっているペットが死んだ時、覚悟はしているつもりでも、その悲しみや自責の念、喪失感は耐え難いものです。時が癒してくれるのを待つか、あるいは新しいペットを飼うという方もいるでしょう。でも私たちくらいの年齢になると、また犬を飼うというわけにはいきません。老い先短いからです。飼い主に先立たれたペットほど、可哀相なものはいませんから。
マルは本に著すことで永遠となりました。私がちょっと手を伸ばせば、マルはいつでもそこにいて、ページを繰るごとに在りし日の姿で私に話し掛けてくれます。
間もなく、マルが亡くなって一年目の夏が巡ってきます。
《第1回コンテスト推奨作品一覧(6篇)》
推奨 作品 |
No.31 | 岡崎 博成様 | 千葉県船橋市 | 『ペットロス』が立ち直りのきっかけ |
No.82 | 坂 しほみ様 | 北海道札幌市 | 本になったマル | |
No.87 | 星野 梟月様 | 東京都東久留米市 | 草の波の下に眠れ | |
No.95 | 遠藤 香様 | 東京都 | Fiona Noble 遠藤 | |
No.96 | 峯岸 さち子様 | 群馬県みどり市 | 苦しんでいるあなたへ | |
No.103 | 斉藤 みか様 | 東京都武蔵野市 | 窓辺のモリはいつまでも | |
第1回コンテスト ― 選評 |